詩織ちゃん! 第十七話「アセアセ」





 転がしておいたドリンクボトルを拾い、軽く振ってみると、中身は少なくなっていた。


「お前飲んだか?」

「ちょっとぐらい、いいだろ。友達なんだか、ら……」
「友達ぃ? 俺の友達は公だけなんだがな」
 本気なのか冗談なのか分からない表情で、要はピッチの外で倒れている真琴に言った。
 暑さでバテやがって。

 いや違う。

 密度の濃い練習に着いて来れなくなっただけである……。
 だいたい、高校からサッカーを始めようとする奴の入部をよく許可したものだ。とは、部員全員が思っている事である。弱音を漏らさないのが不思議なくらいで。

 監督が向こうで何やら喚いている。
 少しは休ませろ。
 などとは微塵も口に出さずに、ボトルを真琴の方へ放る。

「にしぃ!」
「へ〜い」
 期待されてんな、すんげぇ贔屓されてる。


 あいつ、元気かな。

 碧の頭髪を思い浮かべ、要は少し表情を緩めた。

 そういや、もう一ヶ月以上会ってないなあ、と。



1 夏休みだから


 太陽の光は燦々と公の部屋に注いでいる。


 ベッドに大の字になって、公は倒れていた。

 日中、子供たちに公園は占拠されるので、仕方なく夜の練習を一人で続けている公。
 公が帰ってくるのは本当に真夜中なのだ。
 どうしても、次の日は早起きする気にはなれない。

 だって、暑いもん……。

 朝、あまりの温度に強制的に目が覚める。
 しかし体力不足でまた深い眠りへと落ちる。
 その繰り返しで最近は昼頃まで起きない習慣になってしまったのだ。
 いかんな、と自分では思うのである。
 以前だったら毎朝望と一緒にマラソンする毎日だったのであるが、彼女は合宿中だし、両親ともに仕事で、いつまで経ってもこのままなのである。

 冷房器具がオンボロな扇風機しかないので、暑くて体力がないときはひたすら寝ていることもあるのだ。
 我慢できなくなってシャワーを浴びたところで、一時間もたつとまた汗がうっすらと浮かんでくるといった具合である。

 まさにアリ地獄。



 蒸された空気の中、本日何回目か、目が覚める。

 頭の中にもやが掛かったような、そんな感じ。

 天井のちょっとした染みが気になる。
 頭がぼうっとしているせいか、暑さはなぜか気にならなくなっていた。
 なんでだろ。

 なんともなしにごろん、と、ベッドの上で寝返りをうつ。




 や?




 目の前に、顔がある。
 思わず叫び掛けた口を、頑張って閉じる。

 何故、俺のベッドに寝ているんだろう……、というかいつの間に潜り込んだんだ?

 公は眼前にある顔を眺めた。

 長い髪、長い睫毛と、きめ細やかな肌……。
 少女の瞼は閉じられていた。
 すやすやと、可愛い寝息が聞こえる。

 思い当たることがあり、ばっと体を起こす。


 案の定、窓が大きく開いていた。




2 熱、暴走


 淀んだ空気を掻き回そうと、ベッドから手を伸ばして扇風機をオンにした。
 窓が開いているし、これで少しは対流が良くなるはず……。
 湿度が高い部屋の中で、こう密着していると熱気が籠もって頭がぼーっとしてくるのである。


 詩織の柔らかそうな頬を触ってみた。

 ぷに
 熟睡しているようで、反応はない。
 安心したのか、公はヘアバンドをしていないサラサラ零れる髪の毛を手で取ってみた。
 詩織の髪は柔らかくて、触っているだけで気持ちいい。
 少しだけ、汗ばんでいた。

「……んー、……」

 むにゃむにゃと詩織の口元が動く。
 何か良い夢でも見ているのか、表情から察するにご機嫌であった。
 今更だが、滅茶苦茶可愛いよなぁ。と思う。何で俺のこと好きなのか、時々分からなくなるくらいに。


 しばらく、詩織の寝顔を見ていて、突然あることに気が付いた。
 ほんの数センチの距離に詩織がいるのだが、その、詩織が妙に色っぽいことに。
 ほつれた髪が汗でほっぺたに張り付いたりして……。

 詩織から、意図的に下半身をわずかに避ける。
 俺は男なわけで、詩織は女の子……なのです。
 アレですよ、これは。
 いつものパターンだと、詩織を押し倒したりすると丁度親が帰ってきたりするわけで。
 だから、なにもしちゃいけないわけですよ。

 分かっているんだから、俺。


 閉じられた瞼は動かない。
 指先で唇をなぞってみた…………、ふにっと柔らかい。
 意味もなく、女の子特有の躰の起伏が気になったりする。

 …………。


「しおっ」

 我慢できるかっ!
 毎日毎日針のむしろとはどーいうことだ!


 横向きで寝ている詩織の左腕の手首を掴み、強引に仰向けにさせる。

 ごろん、と転がったところで詩織の目がうっすらと開く。

「……、……?」

 それを無視して、もう片方の手首を掴み、両方の手を頭の上で固定した。
 これまでにないぐらい乱暴だが、この暑さで公も暴走中。
 詩織の顔に自分の顔を近づけていく……、と彼女は身をよじってもじもじし始めた。
「……あ、あの、あの……」
 本能的に逃げようとしているらしい。
 両手をロックされているために身動きが出来ない。

 とりあえず、熱烈なキスをして……。と公は考えた。

 が、急激に萎えた。

 詩織の瞳が潤んできたからである。
「う……」
 涙がぽろぽろ零れ始めた。
「うー……」


 頭が真っ白になった公は、詩織を抱き起こすと、強く抱きしめる。
 ぎゅうっ。
「し、詩織っ、ごめん、嫌だった!?」
 公の首に顔を埋めた詩織はコクコク頷いた。
「一緒に、寝たかっただけなんだよね、詩織は!」

 また、コクリと頷いた。


 詩織がどうこういう以前に、公が弱すぎる。

 誰が見たって、そういう結論になるわけである。




3 藤崎家 みたび



 窓から帰らせるのは危ないので、詩織をだっこして玄関を出る公。
 近所の人に見られたらどうしよう……とどきどきしつつ。

 詩織はますます公にくっつこうとする。

 むぎゅ

「し、詩織さん?」
「はぁい?」
「……あの、目立つから……あまり外では……、ね?」
 それを聞いてから、詩織は首根っこにぎゅっとしがみつく。

「ヤだ」

 この子は、俺の言うことを聞いてくれたことが、ひょっとすると無いのではないのだろうか……、将来を考えると何故か心配になる公であった。
 普段は言うこと聞いているんだけどね。
 こういう場面では……詩織は圧倒的に強い。



 がたっ

 無事に詩織の家に上がり、続けて階段を昇るときに、音を立ててしまった。

 公は飛び上がりそうになる。
 慎重に、玄関を通り抜けたのに。
 腕の中にいる詩織がくすくすと笑う。
「今の公、面白かった」



 詩織の部屋はものが増えていた。

 まず、辞書がたくさん増えている。
 何故か。
 机の上にはノートがどちゃっと。
 毎日、凄い量の勉強をしているのだ。

 他にも様々な本が増えている。
 古本屋で大量に買い込んできた様子だ。
「詩織……、一日何時間勉強してるの……?」
「わかんないけど、……ええと、夜に公が帰ってくるのは窓から見える」
「げっ……、こんなにたくさんの参考書どうして」
「レイちゃんにもらったの……、今、語学勉強少女なの」

 そう言いながら立ち上がるとタンスの前に来る。
 引き出しを開け、ごそごそやり始めた。
「どうした」
「うん。汗かいたから、着替えようと思って」
 顔色ひとつ変えずに、言った。


 後ろ手にドアを締め、公は思った。

 誘われているのか?
 そんな馬鹿な。


「誘われているんじゃないの?」

 背筋が凍るかと思った。

 詩織のママンがいつの間にか階段を上っていて、そこにいらっしゃったのです。
 さっきの物音が聞こえていたらしい。

「いい加減に襲っちゃえば? 公くんもグズねぇ」
「お、おそっ」
 怖いことを平気で言うシトだ。

 彼女の親だけあって、妖艶といって良い美熟女に在らせられます。
 やはり、素材が良いから詩織も綺麗に育ったんだろう。
 娘と違い、ショートヘアではあるが、詩織が育つとこうなるのかなぁ、という。
 すごく、どきどきするわけである。

 一方、狼狽する公を見て、楽しむのが詩織の母の娯楽である。

 世の中に何の楽しみもないのならば、せめて公で楽しもうというのがモットーになっているのである。

「下にいらっしゃいな。お茶を御馳走するわ」



4 含みのある光景



「公くん、卒業したら日本を離れるんですって?」

 手慣れた手つきでお茶を公の前に置き、詩織の母は言った。
 大抵の情報は、筒抜けである。
 なに、詩織から話を聞き出すことなんて簡単なもんです。
 夕飯を作るより、楽な作業。


 詩織と母と公で一緒のテーブルに座っている。
 この光景は久しぶりであり、よくよく考えると小学生以来であった。
 詩織の家に上げてもらうのも、高校に入ってからはあまり回数がない。
 反対に公の部屋に詩織が入る頻度は極めて高いのである。(注:勝手に来る)

「それで、何処へ行くの?」
「いくつかのチームが日本でセレクションやってるから、それに参加しようかと…………、駄目だったら直接入団テスト受けるしかないけど」
「自信はあるのね」
「決してそんな訳でもないんですけど……試合勘が無いのはどうにも……」
「生活費はどうするの?」
「はあ、全部自分が面倒見るっておっちゃんが……。だから俺もそういうこと考えたわけで」(注:暇人のこと)
「なるほどなるほど?」


「お母さん」
 真っ白なTシャツに着替えた詩織が、口を挟む。
「面接やっているんじゃないんだから……、なんで公にそんなこと聞くの?」
 お母さん、ひょっとして公に気があるんじゃないのかしら……?
 無用な危機感を覚えている娘。

 母は、ここぞとばかりににやりと笑った。

「だって、大事な娘を預けるのに、生活出来ない無一文じゃ困るものー」
「えっ!」
 驚いた公が、目線で詩織に「ついてくるって言った?」と、聞く。
 詩織は「ううん、言ってない」と返す。
 なに、娘にカマをかけて聞きたいことを聞くことなんて、造作もないことです。

「でもね、公くん」

「はっ、はい!」

「うちの人は、まあいいとしても、公くんのご両親そういうことには厳しいでしょう? どうするつもりかしら」

 ハッとしたが、最終的に問題はそこなのである。

 藤崎家とは好対照に、公の両親はとても厳格なのである。
 いい加減はゆるしまへんでー。
 詩織の母は、この件に関しては公のお手並み拝見を決め込むつもり。
 公は生まれてからこの方、母を納得させることが出来たことなど一度もないのであるが……。

 あ、受験、高校受かった。



「詩織、やっぱりついてくるのやめない……?」

「イヤ」

 詩織はにっこりと笑った。




5 夏祭り

 ドンドンドンドコ

 ぴーひゃらら

 でんでんでんで でんでんででんでん ひゅー

 夏祭りに詩織を連れてきたのは、他意は無い。
 もう何年も一緒に来たことがないし、良い機会だと思って。

「それなのに」

 言いたい。

「なんで……?」


 隣にいるのは結奈さんなのである。
 詩織が美樹原愛を見つけてしまい、話している間に公が焼きそばを買いに行ったまではいいとする。
 しかし、帰ってきたらそこに詩織と愛はいないし、代わりに立っていたのは研究者さんであった。

「落ち込むときは一人でね。それとも私の存在意義を問うているのかしらね?」
「そんなこと、一から十まで思いっきり放っておいてくれよう……」
「折角、キヨカワも西要も、早乙女好雄もいないのに何故、私かしら?」
 言いたいことを代弁してくれてる。
 話が早いのはいいが、これは一体。
「街を歩いていたらあなた達を見つけたのよ。別に意味はないわ」
「いや、……、まさか、そんな偶然が」

「私と話すのは不快かしら」

「いえいえ、そんなことないっすよ?」

 含みのある目線で、公を見つめる結奈……笑っている。
 ノースリーブのイエローカラーのシャツを着ていて、なかなかに格好良いお姉さんといった感じだ。実は鏡さんと比べても遜色ない、と公は思う。
 手元の焼きそばを一口食べ、言った。


「少し明るくなったかな?」
 意外な台詞を公の口から出たせいか、少し驚いたようだが、否定はしなかった。

「もっと取っつきにくい人だと思っていたけど、物腰柔らかくなったっていうか」
「そうね……」
「あ、だから何って言う訳でもないんだけど」
「私が変わったと感じるならば、それはあなた達のせいかもしれないわね。馬鹿な事ばかりしているから……」
「……それは否定が難しい……。……焼きそば食べる?」
「いいわ。性格がどうなろうと、些細な違いでしかないわ……」
 本当かしら? と、公は思うのである。
 紐緒さんって、実は清川さんの影響が一番大きいよなあ、なんだかんだ言って……。
 とも、思う。

 それから暫くの間、櫓を見上げながら二人とも黙っていた。
 威勢の良い太鼓の音を、行き交う人間の雑踏が薄くする。
 近いのに遠い、そんな風に聞こえる。
 悪くない。

「俺の腰、大丈夫なのかなぁ」
 ぽつり、と公が呟く。
「問題ないわ。地道に筋肉を付けていたようだし、あまりにも無茶をしなければ、ね」
「良かった」
「それより、あなたの筋肉は持久性が少し足りないかもしれないわね」

「げっ、やっぱり?」




 やっと詩織が公を見つけたとき、結奈は消えていた。
 幽霊みたいな人だと思う。

「メグは犬の散歩中だったみたい……、ムクちゃんの散歩コースなんだって」
「そう」
「公、どうしたの、キョロキョロして」
「紐緒さん、見なかった?」
「紐緒さん……? 見てないわ」
 なんでだろうか、話したいことがたくさんあったような気がする。

「ねえ、公のスポンサーってどんな人……?」
「ああ、そうか。今度会ってみる? っても俺も毎日会えるわけじゃないんだけど。忙しいらしくて」
「ふぅん……、ね、公」

「うん?」

 詩織は、公の顔をじっと見上げた。
 …………、
 みるみるうちに赤くなっていく。
 恥ずかしいらしい。

「えーと、ね……。好きよ?」

 胸がぎゅーっとしたので、詩織もぎゅーっとしてみた。


 幸せって、胸が痛い。













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