詩織は半分だけ開いた窓から空を眺めた。


 上空は低く、なんだか夏の空よりもずっと低い。
 煙のような厚ぼったい雲が支配する、重た〜い空。
 すぐ上にあるように感じられ、手を延ばせば届きそう。
 でも……十二月の天気としては珍しいわけじゃない。


 半分だけ開いた窓からの空模様。

 期待通りだったのか、期待はずれだったのか。


「うーん」

 少女は、少し首を傾げた。




 のんびり、服を選ぼうかなあと思っていたら、どうもその時間は無いようで。
 ベッドの上に放ってあった小さな鞄を大急ぎで右手に導くと、コートを片手に引っかけてそのまま廊下へ飛び出す。
 ついでに、スカートのファスナーを引き上げるのを忘れない。

 階段を下りるときにスリッパが綺麗なスタッカートを奏で、リビングで本を読む母の耳には心地良かった。
 タタタン、
 タタタン、
 タタタタッ。
 トントン。
 玄関の床を軽くつま先で叩いてから、ついでに壁の鏡を拝見。
 やはり、もう少し服を選ぶ時間が欲しかったところである。
 今日が公とお出かけする日だったらなー……。



 門の外に、豊かな金色の髪を蓄えた少女が立っていた。
 詩織はにこにこしながら、

「待った?」

 伊集院レイは驚いたように首を横に振る。
 彼女の姿勢はチャイムを鳴らす直前で固まっていた。

 藤崎さん、なんで私が来たのが分かったのかしら……?




 さあて、今日は何の日でしょう?

 ちっちっち……。

 ちーん。


 そろそろ年末だということで、第九を聴きに行きたいと言ったのは詩織の方。

「ははぁ、第九……ですか?」

 レイは先月、詩織に携帯電話の番号を教えたばかりである。
 たまに電話が掛かってくると嬉しい……女の子の友達は一人しかいないもので。
 そんなものだから、後先考えずに受話口に向かって返答した。
「行きます! あっ、で……あのぅ彼……、主人君は誘わないのですか?」
 で、すぐにもじもじしだした。

 テーブルで紅茶を飲みながら、メイは不審そうにこそこそ電話をしている姉を眺めている。
「母さま、アレは?」
 趣味である編み物をしているリーセアは、顔も上げずに答えた。
「お姉さんも多感な年頃なのよ。中学の頃は引っ込み思案だったのに比べると明るくなって良かったじゃない。誰が原因かしら?」
「明るく……そうかもしれないのだ」

「レイのことは良いとして、メイは、デートどうだったのかしら?」

 編み物に集中しながら、意地悪な質問。
 驚いてぷーっと紅茶を吹き出してしまうメイ。
 な、なんで知っているのだ!?
 …………怖い母親なのだ………。


 そんな事はまったく関係無しに話を続けるレイ。

「いえ、あのその主人君と行かないで何で、私なのか……あの」
 あ、あわわわ。
 変な事を聞いている自覚が浮かび上がってきてしまっているから、どんどん焦る。

「駄目なの、公はクラシック聴くと寝ちゃうの」
「…………はい?」
「うん……、寝ちゃうの」
 詩織は当たり前のことのように、素っ気なく答えた。
 そのあと、主人家の窓を見つめて公、公とうわごとのように呟く。
 一緒に行きたかったらしい。

「寝ちゃう……」
 レイは困惑したように、呟いた。
「どうしたの?」
「藤崎さん、あの、そのっ……。実は私もクラシックってあまり得意じゃないのです……」
 気軽に了解しちゃったけど、よくよく考えてみればそうだった。

 頭の中では言い訳の花が咲き乱れる。
 なんていうか、単調な音の繰り返しがつらくて。
 我慢するのが、尚更に眠くなってしまい……歌謡曲が好きなメイはいつも寝ているけど。

 詩織に見られているはずはないのだが、レイはあたふた、あたふた。
 その代わりに母と妹に見られているのである。


「レイちゃん」

 受話器の向こうで首を傾げる詩織。
「もちろん、お父様の影響もあるのですが」
「レイちゃん、あのね」
「折角、誘ってもらったのに、私ったらもうっ……」
「眠かったら寝てもいいの」
「……はい?」

 詩織は、人差し指を形の良い顎に当てると、うんうんと頷いた。
「う〜んと、第九は第一楽章と第二楽章は退屈なのよね……実際、ベートーヴェンもそういう風に作ったみたいだけど……私も曲がつまらないときは寝ちゃうもの。だから、レイちゃんも寝たかったら寝ても良いと思う」
「寝ても良い?」
「うん。だから、行こ?」
「え、なら主人君で良いのでは?」
「公はねぇ、つまんないって、昔から言ってるし……それで寝られても私困るし……」
 ぐちぐち。

 演奏中に寝ても良い、というのはレイの中の常識とは、少しギャップがある。
 いつもはお爺さまが一緒だから眠るなんて事はとてもとても。
 そっかぁ、寝て良いのか……。

 でも!

 頑張って起きてる!

 折角、藤崎さんが誘ってくれたのだから!







 理想と現実は一致しないので、レイの決意と実際問題は変わるものであります。


 寝付くまでに時間は余り掛からなかった。
 なに、ヴァイオリンとヴィオラの音色が心地よい子守歌になったまでのことです。


 照明が落とされ、舞台だけが明るく輝く中。
 レイの横顔を見ながら。

 思い出す光景。

















詩織ちゃん!外伝2 「藤崎詩織の場合」






1 クリスマス



 ふかふかなソファのクッションを、ボンボン叩く。
 横になったらもう動かない、てこでも動かないぞ。
 ぐーぐー言いながら、意地でも寝ているのだ。
 世間一般ではこれをたぬき寝入りと云う。


「公、寝ていたら休憩時間がおわっちゃうよぅ」
 こちらの女の子は泣きそうな顔で公のシャツをぐいぐい引っ張った。
 彼は早くも椅子に座って聴いているのが飽きたらしい。

 ぐいぐいぐいぐい。

 詩織はたくさん引っ張ってみるが、公は全然動かない。
 今度は抱きついて無理矢理起こそうとする。
 その手を振り払う公。
「うるさいなあ……、詩織一人で聴いてくれば?」

 サンドイッチやらコーヒーやらを注文している聴客は、騒いでいる二人に注目。
 すぐ隣のテーブルにいた初老の紳士が、二人の姿を認めると、おや、と白髪交じりの髭をいじる。
 子供の他愛のない喧嘩である。
「微笑ましいのう」
 と。


 邪険に扱ったのがどうもいけなかったようだ。


 詩織は怯えたような表情を見せたあと、たちまち瞳を潤ませる。

「あっ、しまった……くそ、またかよぅ」
「っ、……ひっく」
 公は慌てて、後ろのポケットからしわくちゃのハンカチを引っ張り出した。
「泣くなよ……詩織は本当に泣き虫直らないな……」

 詩織は、鼻水をずず〜っと啜り上げると、

「こ、こぅ……が、わるい、んだもん……」
「…………悪かったな」

 ちぇっ、詩織ったら小学校だとおすまししているくせに、……そう、ぴーんと背を張って一生懸命に、さ。それが普段の詩織。…………俺と一緒にいるとき以外の詩織。
 まーったく、この「ぎゃっぷ」は非道いもんだ。
 なんか、妹を相手にしているみたいだぞ?




「いてっ! ………ってぇ………、……あ」

 いつの間にか、鬼のような顔をした母が公の背後に仁王立ちしていた。
 まさに、悪鬼のごとしとはこのことだ。
 超、怖い。
「馬鹿公っ、詩織ちゃんを泣かせちゃだめじゃないっ!」

 ぐりぐりぐり。

「いだだだだっ!」
「聞ぃ〜ているの? 公!」
「き、聞いてるって! あいだだあ!」
 手加減なしの、寸止めなしの容赦なしである。
 言い訳すら聞いてくれないのだからヒドイ。
「大人しくしてなさい、って言ったでしょぉ〜!?」
「し、しおり、助けて!」
 そう言われても。
 詩織は公を助けたいのだが、一方でびくびくとおびえている。

 小さい頃から、公の母親だけは怖いのである。



 演奏が始まっても、ロビーに一緒に残った詩織は公の頭をひたすら撫でている。
 母ちゃん一回くらい、手加減してくれても罰は当らないと思うのだが。
 ヒリヒリいたむ頭を思い浮かべる。

「ぇと、……痛い?」
 詩織は公の顔を心配そうにのぞき込んだ。
「公、ごめんね……? ぅ……ごめんなさぁ……ぃ」
「お、おい、もう泣くなってば!」
 この際だから言わせて貰うけど、お前、ちょっと泣きすぎじゃないか?
 どこから湧き出てくるのか知らないが、先ほどの涙が乾ききらないうちに、もう次の涙が。
「ごめんなさい……ごめんなさい……、あのね、あさって公のためにおっきなケーキ焼くから……」

 ぴくっ。

 突然飛び込んできたキーワードに過剰に反応する公。
「クリスマス? お前、また焼くのか?」
 肩をつかまれて、ガクガク揺すられた詩織。
 怯えた顔で、頷いた。
「う、うん」

 クリスマス。
 それは大事件だ。
 十二月二十四日は毎年毎年、妙ちきりんな味のお菓子が完成する日。
 俺、また気持ち悪くなるのだろうか。

「詩織さぁ、おばさんにまかせた方が……ああ、分かった分かった。今年も楽しみに待っていればいいんだろ……」



 嫌な年間行事もあったものである。





2 火打ち石



 登校日を残り一日とした朝。

 クラスには朝早くから四、五人の女子が集まっていた。
 真冬の寒い時期、ご苦労なことで。
 おばさん予備軍の井戸端会議のようでもある。

「ねぇ、主人君ってば、誘えば来るかなぁ」
 唇がチャームポイント、桃木さんの発言。
 この子は、語尾が伸びるのが特徴。
 それに対して他の女の子の返答は様々に。
「主人君……? 言えば来るよ、きっと」
「でもその日は詩織ちゃんにべったりじゃないの?」
「それ」
「困ったわね」
 それが、一番の問題。
 今日のテーマであるから、みんな真剣だ。
「違うわよ。詩織ちゃん『が』べったりなの」
 白熱した議論の最中、冷静に間違いを指摘したのは級長の山本さん。

『あっ、そうか』

 上手い具合に、みんな納得した。
 何を納得したのかは内緒である。



 最後の給食が終わって五時間目は国語。
 今日は大掃除もあるし、大変だ。
 放課後分の英気を養おうと、生徒達はシーンと聞いている……、たまに、寝ているのも。



 窓際の席で、噂の少女はぼーっとしていた。

 日中のぽかぽかとした日差しを浴びながら。
 黒板の文字なんか、見ていない。白いノートに四角形と丸を組み合わせた奇妙な図をぐるぐると描く。
 但し、ノートも見ていない。
 その視線はふよふよと漂い、目の焦点もあってない。
 公なんかは、その様子が後ろ姿だけで分かってしまう。
 まるで蝶々が頭を舞っているように見える。
 あの調子だと、ドジだから、なにもない平らな地面で転びそうだ。

 今日は早く帰って、友達と遊びに行こうと思ってたけど、やっぱり、掃除が終わるまで待っていようかなあ。


 とてもとても。
 高学年の女の子に対する心配ではない。

 まあ、いいではないですか、と。







「ぬしびとく〜ん!」
「ね、ね、いいかな。ちょっといいかな?」

「はあ?」
 詩織を待っていようと、下駄箱で運動靴を靴箱に戻しかけたら、クラスの女の子がわらわらと話しかけてきた。
 お喋りで五月蠅い矢野さんもいれば、普段口をきかない渡辺さんもいる。
 なんだこりゃ?

「ね〜ね〜、クリスマスは暇ぁ?」
 ポカンと口を開けた公に、女子達は唐突な質問。
 この年頃に遠回しという単語は無いらしい。

「明日! クラスで何かやろうって、女子で話しているの!」
「クリスマスだよ? 一年に一回の!」
「そぅ、折角だから、主人君も来ないかって」
「行こう!? ねー、ちょっとだけでも顔出せるでしょ!?」
「……来るわよね、当然」
 一斉に話しかけてくるので、何がなんだか分からないが、得体の知れないプレッシャーを感じた。
 公は下駄箱を背に、少し後ずさり。

「あ、明日は用があるから……」

「来てよ〜、クラスの男子馬鹿ばっかなんだもん! 誰とは言わないけど、○村君とか、宮○君とか」
「で、クリスマスに用ってなーに。主人君、ナンですか?」
「な・ぁ・に?」

「そ、それは……」
 うわー、おっかね……。
 後ろがないことに気が付いて、心臓がばくばく。


「それは詩織ちゃんでしょ」

 後ろで聞いていた眼鏡の山本さんが、ビシッと指摘した。

「駄目、駄目よ〜、主人君! そぉいうのを尻に敷かれているっていぅんだからぁ!」
「そうよ、今からそんなじゃ、将来が不安!」
「じゃあ、詩織ちゃんも誘えば良いよね? ね、ねっ、それなら来るでしょ!?」
 ますます勢いが増してくるようで……。

 公の背中をだらだらと汗が伝っていく。

 何の悪夢だろう、これは。
 女は怖い、と思った。





3 火元は?


 こぽこぽ。

 公は湯気を立てて煎茶が注がれていくのを眺めていた。
 暇をもてあました手はお茶菓子をつまもうとして、テーブルの上にかつんと落ちる。
 かつんかつんと音がした。


 湯飲みを置くと、詩織の父はこんなことを言いだした。

「公君、詩織と喧嘩しても先に謝ってはいけないぞ?」
 前々から言いたくてウズウズしていたらしい。

「断じていかん。大体、女ってのは甘やかすと勘違いする生き物だから……調子に乗ると手を付けられん。だいたい」
「誰の事かしら?」
 母の突き刺さるような視線。
 ぷしゅう……。
 まるで風船がしぼむように気勢を削がれてしまい、こそこそと読んでいた新聞紙に隠れる。

 大袈裟にためいきを吐いてみせると、今度は詩織の母の番。
 こっちは、少し楽しそうだ。
「で、喧嘩の原因は何なの? 公くん」






 暖房の効いた詩織の部屋は暖かく、ぽかぽかだった。
 この部屋を訪れるのは宿題を写させてもらう時がほとんどなのだけれど。

 今日はちょっと違うんだよなあ。

 薄黄色いシャツの上に赤いチェックのワンピース。
 詩織はお茶菓子を置くと、公の向かい側にぺたんと座った。
「えへへ」
 二十四日に近づくにつれて、どんどん嬉しそうな表情になっているようだ。

 女の子の部屋らしく、本棚の横にはぬいぐるみがたくさん。
 昔から、ぬいぐるみとか人形とか大好きな女の子。
 ただ、幼稚園の時にあげたねずみのぬいぐるみは何であんな隅に追いやられているのだろう?
 正解は。
 ねずみが大嫌いだから。

 そわそわそわそわする。
 落ち着かない。
 でも、言わないと駄目だよなあ。

「あ、あのさ、明日、クリスマスだろ?」
「うん!」
 詩織の目がきらりんと輝いた。

「いや、だから」
「うん、うん」
「クラスでクリスマスやるって……詩織との方が、駄目になりそうで」

「……………?」

 お盆を置こうとしていた詩織の挙動が止まる。
 いきなり止まった。
 公は皆の意見に押し切られた形である。
 数の暴力は恐ろしいので、あまり公を責めてはいけません。

「クリスマス……しないの?」
「詩織?」
 おそるおそる顔を窺うが、表情は前髪に隠れてよく見えない。
 詩織の脳に公の言葉が浸透するまでしばらく掛かったのかもしれない。

 そのまま、暫く時間が過ぎ去る。


 やがて、ぽつり。
「……公の、うそつき」



 少女は顔を上げると一気に爆発した。



「うそつき、うそつきうそつきうそつきうそつきうそつきー!
 クリスマスは、詩織と遊ぶって言ったじゃない〜!!!!!!!!!!!!!!!!」

 絶叫にも近いその声。


 窓が少し………揺れた。




「だ、だって、皆が……」
「詩織は、断ったもーん!! 公のうそーつき、うそーつき!」
 言い切ると、一転して凄い目で公を睨み付ける。
 うわぉ。
 普段は驚くほど大人しい反面、衝撃的な出来事である。
 やばい導火線に火を付けてしまったような気がした。

「い、いちねんかん、たっ、楽しみにしていたのに……公のばかぁ!! ばかばかばかばか、おたんち〜ん!!!」
 公に向かい直すと、ぽかぽかと胸を叩き始めた。
「お、おたんちん?」
 一気に部屋の中は騒然となり……。
 詩織が暴走を始める。
「こうのばかぁ〜!」
 どかっ
「あぐっ」
 おおきな黄色い熊のぬいぐるみが飛んできて、公の顔面に当った。

「ばかぁ!」
 次いで長身のグレーウサギが凄い勢いで迫ってくる。
 ぼふっ。

 更に二頭身のドラ猫。
 振りかぶって青い帽子をかぶったアヒルなどなど。
 ドジな割には運動神経が良いだけある。
 全て公に命中した。

 当ったのを確認すると、肩で息をしながら泣き出した。
「ばかぁ〜!!!」





4 カチカチ山


「主人、藤崎と喧嘩したのか?」
「喧嘩したの? 何で?」

 終業式だというのに、何故こんな鬱になる質問ばかり。
 確かに、怒らせちゃって、完っっ璧に無視されてるけど。

 朝、一緒に登校しようとした。
 ついでに謝る予定だったけど……ランドセルの革ひもを掴むと、有無を言わさず消え去った。
 はえー。

 下駄箱で追いつく。
 口を開いた途端、あっかんべー。

 ロッカーに溜め込んだ大量の荷物。
 普段から少しずつ持ち帰れば良いのに……。
 いつもなら、一緒に持って帰ってくれるのに、今日に関しては何も。
 知らん顔。

 しらんかお。


 なんだかね、その詩織を見て俺は悲しくなったのよ。







 オーブンの中で膨らんでいるスポンジを確認。

「うん、いい感じね!」
 母は陽気にホワイトクリスマスを口ずさみ、優しく明るい歌声が詩織の耳に入る。
 とてもそんな気分にはなれないのに。

 暗い空を、白い粉雪が舞っていた。
 詩織はただただ、窓の外の暗い空を眺めていた。
 頭の中はぼんやりと。

 母は、生クリームをホイップしようと、テーブルの上の泡立て器を取る。
 暗い顔をした娘に、ちょっと助言。
「いい加減、公くんを許してあげたら?」
「いや」
「でも、公くんだって詩織が来ると思ってオーケーしたんでしょ?」
「イ・ヤ」
 口を真一文字。
 聞く耳持たない。
「そう」
 母は片方の眉をやや上げると、少し笑ってまたケーキ作りに戻った。
 素晴らしく頑固です。
 誰に似たのかしら?


 詩織は、母の見ていないところで、大きな溜息を吐いた。

 私、ちっとも楽しくない。
 多分、世界で一番不幸なクリスマスを過ごしているんじゃないかしら?

 クリスマスなのに……、喧嘩するなんて。
 だって、だって、ずっと楽しみにしていたのに。
 公が、公……が、悪いんだもん。
「来年も……だったらどうしよう……」
 そう考えると、顔が赤くなり、鼻の奥がつーんとする。

 ぐす……。

 ぐすん……。








 自分の世界に入ってしまった詩織を後目に、母はてきぱきと作業を進める。
 ふんわり焼けたスポンジ台を、包丁で丁寧にカッティング。
「軽く焦げた部分が美味しいのよね♪ これは明日のおやつね」

 冷蔵庫から冷やしたフルーツを取り出そうと体の向きを変えると、誰かが立っていたことに気が付く。
 あらら? ドロボウかと思ったら。
「な〜にしに、きたのかしら〜?」
「なにって……」
 顔を伏せていた詩織は、途端に反応した。

「公、ちゃん。……クリスマス会に行ったんじゃないの?」
 公は、気まずそうに頭を掻いた。

「やっぱり、行くのや〜めた」

「え」

「やめた。詩織、ケーキは?」

「あ、あぅ、ちょっと待って」

 慌てて、立ち上がる。
 土台は焼けたので後はクリームを塗って、デコレーション。

「随分、短い喧嘩ねえ。許してあげないんじゃなかったの?」
 耳を赤くして、母親からボールをひったくる詩織。
 少女の心は気ままなもので、笑みが浮かぶ。

「お腹減った〜。あー、疲れた」
 公は先ほどの詩織のように、テーブルに顔を埋めた。
 全速力で帰ってきたものだから……皆、怒っているかな?
 何故かと聞かれれば困るが、良く考えてみたら詩織との約束が先だ。
 うん。

 ……っていうのは、言い訳。
 俺って、詩織に関しては甘いのかなあ……、やっぱり。


 生クリームの詰ったチューブと格闘している幼馴染の少女を見た後。
 公は窓の外を眺めた。

 何も言わずに雪が降っている。
 景色は回り回って。

 ……今は?




5 時が過ぎると


「レイちゃん?」

 呆けたように歩いているレイの目の前に手をかざす。

 ハッとしたように、レイは我に返った。

「は、はいっ。すみません、もうしません!」
 顔を真っ赤にして答える。
「私、ほとんど寝ちゃって……」
 そんな事は、言ってないのだけれど……。
 確かに、最後の第四楽章、歓喜のテーマだけだ。
 レイが起きてたのは。

「んーん、私も、第四楽章目当てでチケット取ったから……でも、良かったでしょ。私、バリトンのソロが良かった」
 レイはうんうん、と頷く。
 やがて、透き通った声で歌い出した。
「Freude, schoener Goeterfunken,Tochter aus Elysium
 Wir betreten feuertrunken,Himmlische, dein Heiligtum
 Deine Zauber binden wieder,was die Mode streng geteilt,
 alle Menschen werden Brueder,wo dein sanfter Fluegel weilt……」
 中央通りを歩く通行人の視線が集中する。
 ケーキを買って帰るサラリーマン、食事を終えたカップル、サンタの格好をしたサンドイッチマン……容姿端麗な少女二人が歩いていて、そのうち一人が美しい声で歌を口ずさむ。
 ほぅ……と、感歎の声が上がった。
 一番びっくりしたのは詩織である。
「レイちゃん、ドイツ語喋れるの?」
「す、少しだけ……。二期会の方みたいには歌えませんけど……。でも、本当はフランス語の方が得意なんです」
 照れたように下を向く。
 語学は、母親の影響で必須でした。
「フランス語……、得意なんだ」
「はい。……えと、藤崎さん?」

「わたしに教えてくれないかなぁ」

「え」
「ダメ?」
「い、いいえ! 勿論、私で良ければ」

 突然の言葉はいつものようにレイを驚かせる。


 多分、何も考えていない。




「フランスかあ……、行ってみたいな」
 一人で家路に向かう詩織は、なんとなく呟きながら歩く。
 いつか……、いつかって、その、けっこ……。
 し、し、し、……しんこん、りょこう……。

「どこいくって?」
 公園の前を通りかかったら、噂をすれば……というか、公。
 サッカーボールを持って。
 今日は西君と一緒だったの……?

「丁度良かった。詩織、この後暇あるかな」

「う、うん、ひま……だよ。なんで?」

「部屋にプレゼントがあるんだけど」
 詩織は有無を言わさず、公の手を握った。
 聞くまでもなく、行くつもりらしいです。

 厚い雲からは、白い雪がちらほら降ってきた。



「クリスマスといえば……昔、よくケーキ焼いてたよね、詩織は」
「うん、今日も、焼いてあるの」
「………あ、そう」
 胃薬、まだあったっけ? 紐緒さんにもらった粉薬もたしか残っていたような……。
 変なこと思い出さなきゃ良かった。

 そっと、詩織は公の顔を覗き込む。
「ね、プレゼントって何?」

「内緒。見てからのお楽しみ」
「教えてくれないの?」
「駄目です」
「公の、けーち」
「嫌いになった?」
「ううん、だいすき」
 スイッチというか、モードが変わったようで。
 ダウンを羽織った右腕に思いっきり抱きつく。
「あのね、すごく、すき。こうが、いちばんすき」
 滅茶苦茶可愛い。
 この子、絶対に手放したくないんだけど、どうすれば良いんだろう……神様に祈れば良いのかな?


 詩織の耳は寒さで赤くなっていた。
 なんともなしに、触ってみる。
 サラサラの髪のが公の手に心地よい。

 ついでに……どさくさに紛れて詩織の唇に、さっと触れる……、自分の唇で。
 彼女はやっぱりいい匂いで、口唇は少し冷たくて、柔らかかった。
「…………」
 目を見開いた詩織が固まっているので、調子に乗って二度、三度と繰り返して唇を合わせる。

 抱きしめたくてうずうずしている両手は背中の後ろでうろうろ。





「そういうことは、家に帰ってやった方が良いぞ、公」

 死ぬほど驚いた公は、瞬間的に詩織から離れた。
 そこにいたのは……

「げっ! お前、帰ったんじゃなかったのか!?」
 先ほど別れたはずの要が頭をぽりぽり掻きながら傍観者。
 詩織は要の存在など目に入らないかのように、呆けている。

 あまり、反応は無い。

 二回目……なので、まだ慣れていないのかな。
 と、公はこの時点ではそう考えていた。
 本当にそれだけなのかは、よく分からないところである、なんせ詩織だから。


「そのつもりだったんだけどさ……今日、クリスマスだろ?」
 公は胡散臭そうな顔を要に向けた。
「なんで、お前が顔を赤くするんだ……」
「そりゃ、俺だって健康な男子ですよ。……、あ、ちょっと待ってくれ。公に渡す物があるんだ」
 要は電柱の影に置いて置いた、大きなずた袋をごそごそ。
 ごそごそごそごそ。
 で、106で購入した公専用のスペッシャルなプレゼントを取り出そうと。

 する。

 前に。


 我に返った詩織が、公を連れ去っている事に気が付いた。
 遠くの方で、腕をぐいぐい引っ張られているのが見えた。

「西〜! またな〜!」








 木枯らしの中、たたずむ要。
 折角持ってきた俺のプレゼントの立場は一体……。



「藤崎の馬鹿〜!!」



 どこまでも、その絶叫は響き渡ったとか。
 たまに出ると、この扱いは酷い。


 まあ、要らしくて良いと思う。










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