天外魔境2
立ち止まった絹が口を開く。
「カブキさんも雨宿りしているのかしら……」
「ここからだとちょっと離れてるけど、大きめの宿場町が途中にあったはずだから…………あいつだったら無理してでも行くよ。
………………街にさえ着けば何しろ……」
「……?」
「ん、お前は考えなくてもいいさ……。ろくな事じゃないんだ」
「……」
「…………。……にしても、極楽ん家って遠いな!」
雨が降ってきた。
夕闇が夜の帳を下ろすために、その顔を変えようとしている時……。
春先の雨は肌をさするように冷たい風を運び……。
二人、巨大な栗の木の元。
旅人は、その足を止めるに至る。
卍丸は雨で濡れた蓑を軽く払うと、雨の届かぬ木の根本へと置いた。
絹もそれにならう。
火多の実家から持ってきた、かの宣教師が作った提灯型の不思議な灯籠は橙の光を灯し、二人を照らす。
木の根本が雨で濡れていないのを確認すると、絹を座らせ、自分も乱暴に腰を下ろすと胡座をかいた。
卍丸らしいぶっきらぼうな座り方に、関係ないところで絹はほっとした。
再会した卍丸は……、どこかよそよそしく思えたから………。
あの戦いの日々から早二年。
危急の難事より火多を飛び出したのはつい先日の事のように思えた。
火の一族と根の一族の存亡を賭けた大戦。
腰に下げた剣を振るい、国々を次々と巡り、どこまでも駆け抜けたわずか一年ばかりの時はもう過去のこと。
幾ばくの時も流れない間に、火多に戻った少年は遅めの元服を済ませ、流石に髷を結うのは拒否したが、卍丸もそれなりに責任感が芽生え始めた頃合いである。
陣羽織を纏い、剣を振るい、業を磨いた日々はもう遠い。
今は畑仕事の合間にも、母親の小春からは家を継ぐことを其れとなくせっつかれている。
皆が戻り、火と根の確執も一段落したかのように見えて……、そう、平和になった。
野良仕事の傍ら、専ら破壊された街を復旧させようとする村人を手伝う事が日常となり……。
もうずっとこうやって日銭を稼ぎ食い扶持をなんとかしているが、いい加減、職をはっきりさせないと不味いなどと……………考える事はあった。
極楽太郎が自分達を新居に招待すると言い出したのはそんな折である。
手紙が届いたのだ。
融通の利かない守銭奴兄弟が飛脚を始めたようだ。
さぞかし大金を払っただろうに、届いたのは極楽が書いてから数日もしなかったのだからその商売は確かかもしれない。
先の戦いで使ったカラクリをちゃっかり持ち去って様々な事に使用しているとのこと。
こっそり飛脚の兄さんが教えてくれた。
それで……………。
手紙を受け取って間もなく、絹、が来た。
春は歓迎し、卍丸の家に一晩泊まったのだ。
京のカブキは「一人で行くさ」と言い、そのカブキの言付けを持ってきたのだと言うが、その席で「卍丸と一緒に行く」と言い出した。
羽衣を使い渡ってきた絹にとって、卍丸との距離は無いに等しい。
……ではあるが、卍丸と絹とのわずかなとも言える逢瀬の隙間が確かにあった。
火多にて、再会した絹に驚く。
少し見ない間に彼女は………。
たった一年。
その通り、絹に聞けば、「そんなことない」と答える……だろうけれど。
素直に美しくなった、と卍丸は思う。
ほんの少しの時間離れていただけなのに……自分が全然変わっていないのに、何故女は変わるのか。
怖いくらいに。
「もともと、綺麗だったけど……、さ」
闇の中で光り続ける灯籠をぼんやり見ていた卍丸が発した独り言。
絹は顔を上げた。
もう火多のガキ大将ではないが、その彼女の面妖な印象を真正直に受け止めるには、まだまだ若い。
あいつがいれば、また馬鹿にされるんだろうが。
『卍丸はよぉ、て〜んでガキだからぁ。まぁだまだ! 女の良さが分からないってかっ!!
ぎゃはははははははっ!!』
いかにも言いそうだ。
想像してみて、苦笑した。
「どうしたの?」
「カブキの事を思い出した」
「そう……………、何事もないといいけど…………」
「揉め事大好きな奴だからな…………道中でまた何かやってるかもね」
かも、しれない。
暗闇の中、小さな灯りが二人を照らしている。
雨音はだんだん小さくなってきていた。
ぴちょん、と、木々の葉から雨粒が落ちる音が、雨音の中にあっても一際に目立つ。
絹は、そっと卍丸の顔を窺った。
こうやってたまに軽口を叩いてはいるが……やはり、卍丸の顔色は冴えない。
腹に何かを溜め込んでいるようだ。
卍丸の態度の理由は根が深い。
火と根の戦争が終わり、目的を失った卍丸は、脆く、無気力であった。
放心していた毎日が続き、のろのろと動き出したのはそう昔の事ではない。
母親が心配するのも当然のこと。
卍丸は浮き世に、社交場に身を投じた団十郎とは、全く違う。
自分は、平穏を望んでいないのだ。
畑を耕す毎日に持て余す体力を費やす意義は見いだせても、腹の底に棲み続けている戦士の血は決して充実などしていない。
絶対におかしい、と自分でも思う。
血が騒いでいることは日毎に卍丸に強い焦燥の念を抱かせるのだ。
一体何故?
何を焦るのか?
焦る……。
違う。
待ち遠しいのだ。
戦うのが……。
斬ることが……。
そして殺すのが!!
団十郎が異国で暴れてきた事を文にて知ったとき、端々で大げさに書いていた乱雑な文章に嫉妬したのは記憶に新しい。
俺を連れて行けよ馬鹿、と軽く罵ってみたりもした。
自分の命を注いで創り上げた剣が震えている気がする。
用もないのに束を握ったりもするが…………父母の目を気にしてすぐにやめる。
一体自分は何をやっているのだろう。
卍丸は不満なのだ…………力を持て余していて、いらいらする。
何をして良いのか分からず煩悶する日々。
「卍丸…………元気だった……?」
形の良い眉をやや歪ませ、少女は浮かない顔の卍丸を心配する。
絹は優しい。
「………、元気だ、よ」
手を伸ばすと、頬を優しく撫でた。
上手く演技出来ているかどうか、気になる。
俺はこんなでも絹だけには”殊更”明るい振りをしてみせる……。
憂苦に満ちたこの心の内を、絹には見せたくなかったが故、無理をする。
きっと、団十郎や極楽の前でなら苦しみを吐露するかもしれないが、彼女は駄目だ。
俺が一緒に、歩いてやると言ったから。
それは、俺と絹との約束。
心が苦しんでいても、叫ぼうとしていても彼女を前にすると俺は………。
今は絹にも両親が、仲間がいると分かっていても……、決して、譲れない気持ち。
ならば俺は、彼女を言い訳にして生きようとしているのか?
否。
決してそうではない、俺はそんなに弱くない……、だがもう……。
限界かもな……、卍丸は自らを笑い、軽く不貞る。
俺を誰も知らない土地まで、旅にでも出ようか?
戦乱の最中にある場所はいくらでもあろう。
さもなくとも、自分を誰も知らない人間の地というのは魅力的だ。
そんな事を考える事がある。
「あの……、雨が止んできたから…………、あそこ、……ね、人家があるかもしれない……」
絹が暗がりを指さすと、かすかにゆらめく灯りのようなものがある。
確かに。
「…………うん」
「……………」
「ああ、なんでもないさ……。行こうか」
卍丸は、腰を上げた。
こんな山の中に小さな宿場があるとは思いもよらなかった。
一階は自分の寝床と台所、内風呂、二階の三部屋を客に提供しているのだという。
この辺りの山は珍重な山菜の宝庫であるらしい。
そこで繁盛とまではいかないが、年に何度か決まった季節に訪れるまとまった客を相手に宿を提供しているらしい。
旦那に先立たれ、それから一人でやっているのだという宿の小母さんは、たまの人が恋しいのか、途切れず話に興じる。
あがり框に腰を下ろした卍丸は濡れた沓を脱ぎ、先に上がらせた絹から手拭いをもらった。
「お客さん達、随分若いけども……、夫婦かぃ?」
卍丸は返答に窮する。
絹を、見る。
幾つか、特別な感情が入り混じったような表情で、やや俯いている。
卍丸は俯き、沓を脱ぎながら応えた。
「………………、そうだよ小母さん。先日、祝言をあげたばかりさ」
「初々しいね、…………これまた綺麗なお嬢さんを射止めたもんだね、アンタ。
いいさ、食事なんざ、山で採れたもんばっかだ。精が付くものばかりじゃないが、ゆっくりおやすみぃな」
わずかに賤しい表情で、小母さんは卍丸を笑った。
絹をじろじろ見ると、手を叩いた。
「さ、一休みしたら食事だ。疲れたろう、お嬢さん?」
「…………はい」
雨に濡れた蓑を玄関に置き、卍丸は絹に先だって軋む階段の上へ上がる。
すぐ右にフスマがしめられた部屋があった。
この雨だ、先客がいるのかもしれないと思ったが、気配はない。
やはり自分達だけのようだ。
それでも、卍丸と絹はあまり音を立てないように注意して更に奥の部屋へと歩いた。
荷を降ろすと、卍丸は廊下で浴衣に着替えようやく旅装束から解放された。
小母さんが言った通りに食事は簡素なものであったが、歩き通しで疲れた体は何よりも一息付ける空間が有り難い。
風呂を炊くにも雨が降っているので、体を濡れた手拭いで体を拭くだけにした。
この雨の中、井戸を往復するのは辛かろうと思い、断る。
それでも、大分落ち着いたが……。
「…………」
卍丸は座布団の上で胡座をかく。
敷かれた布団と、布団の縁に座る絹が気になる。
なるべく見ないようにした。
布団は絹に使ってもらって、自分は畳の上で寝よう。
そう考えていた。
部屋の中で着替えた絹は敷かれた布団を避けるように畳の上に正座をすると、ようやく聞き取れる小さな声で呟いた。
「私と、……夫婦」
卍丸はぎくり、と絹を見た。
「御免、俺なんかにそう言われるのは」
「嫌じゃない……少し、驚いただけ、…………だから……」
だから………、
その言葉が歓喜なのか、嫌悪なのか、絹の表情から感情は伺えない。
正直なところ、腹の中が暗鬱としていた卍丸ははっきり言わない絹の態度が気になる。
嫌、……じゃなけりゃ何なんだろう。
どうでもいいの、か。
「その………………」
口籠もる姿を見て。
少し、腹が立った。
絹は自分にとって何よりも、多分、俺の命よりも大切なものではあるが………。
分かるだろうか。
加虐心が大切なものを切り刻み、自らを傷つけることを善しとする、今の卍丸にとって違和感のない感情の発現であった。
この頃の心に抱えた苦悩が、「大切なもの」の気になる反応に呼応した形……。
要は、卍丸は限界だったということだ。
気を利かせたつもりか、小母さんが用意した布団は一組しかない。
浴衣の裾から覗く絹の素足が嫌に目に付く。
卍丸はカラカラに渇いた喉を鳴らして、絹に言った。
「…………、いっそのこと、本当のことにしようか」
「…………え?」
困惑している絹の手を掴む。
「ま、」
彼女の細い肢体を強引に押し倒し、布団の上に組み敷いた。
「……!」
絹は驚き、小さく悲鳴をあげる。
卍丸の顔からは、すっかり表情が抜け落ちていた。
まだ。
雨の、音が聞こえる。
誰もいない空間で、木から落ちる雨水の滴りだけが、耳に付く。
掛布団の上に押し倒した。
やってしまった……、だけど。
卍丸は絹の瞳を見る。
絹は卍丸の瞳を見返した。
絹の澄んだ瞳は、少し震え、じっと卍丸を見つめていた。
「これは、嫌か?」
「………………」
「俺は、……、したいようにする」
卍丸は、絹の浴衣の共衿に顔を寄せると、そっと首筋を唇でなぞった。
絹の体が、びくっと揺れる。
顎の下に唇を付け、弱い力で縦横に這わせてゆく。
小さく、口から吐息が漏れた。
卍丸を離さないように、きめ細かな肌の方が吸い付いてくるように感じる。
………こいつの名前と同じ、…………まるで絹の反物みたいになめらかな肌だ………。
透き通るように白い首の付け根を舌で舐める。
「気持ち良いか?」
「っ……………」
彼女は、喉の奥で声を漏らした。
呆れていた位に団十郎が女に溺れた気持ち、卍丸には……たった今、痛いほど分かった。
相手は十把一絡げの粗野な女ではなく、絹、だ。
興奮するなという方が無理だ。
首筋から耳元まで唇を移動させ、またおとがいに口を付ける。
鬼の血を引いているとは思えない、この柔らかい肉はどうだろう。
全て自分のものだと思うと、卍丸は腰から崩れ落ちそうな快楽を感じる。
こいつだけは……自分のものだし、そうに決まっている。
そう、決めつける。
他の何を奪われてもいい、だが俺から絹を奪う奴がいるなら……。
狂気の意志が卍丸の脳裏を駆けめぐり、そして支配した。
首筋に幾つもの印を付け、胸元に顔を埋め唇で痕を付けてゆく。
時折、声を我慢した熱い吐息が耳元に聞こえる……。
自分の行為に乙女の体が自然と反応していることに、卍丸は歓喜する。
そうして、ようやく絹の躯が少し震えていることに気が付いた。
顔を見ると彼女はきゅっと、目を瞑っていた。
胸元から首筋、……耳元まで朱に染まっている。
卍丸にされていることを羞恥の中でじっと我慢しているように見えた。
「…………っ」
卍丸は、泣きそうになった。
絹の手を離すと、どうにか体を起こす。
「御免……。……どうかしてる……」
かすれた声で、……やっと、そう言った。
絹ははっと目を開けると、卍丸の顔を見た。
「そんなこと…………」
あり得ないと思った。
我慢する卍丸なんて…………………、……そんなの、自分は知らない。
したいようにする、そう言ったではないか。
暗鬱に恥じた心を抱え、卍丸はぽつりと呟く。
「……疲れた……」
「……………」
「やっぱり、俺は、そこらに雑魚寝する。……お前が嫌なら廊下でもいいけど」
卍丸は枕にするべく、座布団を取ると折り曲げた。
やはり最初からこうするべきだった。
絹は言った。
「そんなのだめ……」
「……絹、頼むから」
「……………だめ」
「うわ、」
卍丸の体に不可解な力が加わる。
印を組むのが見えた。
体が引き寄せられる。
「お、おい」
「……………黙って」
「………こんなくだらないことに術を使うなんて、お前どうにかしてる」
「そんなこと、知らない」
絹は微笑むと、掌を上に向ける……………、卍丸は見事布団の上に座る絹の隣まで連れてこられたのだ。
「………、だって卍丸といたいもの、私…………」
「俺は別に、」
「あなたの事なんて知らない。私が、こうしたいの……」
掛け布団を引き上げると、自分と同じ浴衣を着ている卍丸に躯を押しつける。
柔らかな曲線が感じられる絹の体躯と、体温に卍丸は赤面した。
「好きな人と、一緒にいるのは当たり前、よ?」
く、糞………この我が儘娘。
手段を選んでいない。
昔からそうだ、時折、俺やカブキがしないような大胆なことを平気でする娘なのだ。
分かった、絹は全然変わっていないのだ。
「何を悩んでいるのか、知らない……、でも私は……」
「私は……?」
「貴方と……、……」
徐々に、絹の顔が近付く。
「ずっと、一緒に…………ね」
呟くと、絹は卍丸の唇に自分の唇を押しつけた。
絹の匂いと柔らかな唇……が。
卍丸の乾いた唇を、しっとりした絹のそれが塞ぎ強い力で接吻をする。
「ん…………」
小さく絹が鼻で息を漏らした。
背中に回した手は一層強く……。
長い間、その状態が続き、卍丸もとうとう自分の体から力を抜いた。
初めての接吻にも関わらず、絹は平気の平左であり……、卍丸とは対照的だった。
だって、卍丸だもの。
女って凄いな……。
そっと、自分の腕で包むと、絹はようやく安心したような顔になる。
卍丸の中で蠢いていた狂気、絹により簡単に一蹴されてしまった。
とりあえず、今は……。
絹は小さく、柔らかく……。
その躯をすっかり卍丸に預けてしまっている。
ああ、そうか、守るって言ったっけな………。
小さく息を漏らすと、卍丸は雨音を聞いた。
強い雨音だ。
雨は、まだ、やみそうにない。
追記
卍丸と絹は手を繋いで寝ていたが、朝起きてみると外れており、しかし絹は卍丸のはだけた胸を枕にしてすやすやと寝ていた。
彼は、しばらくの間動くに動けなかった……。
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